act03-03

 暮れゆく射光が学舎の廊下を橙に染める中、那都は授業道具が入った鞄の肩ひもが肩からずり落ちないように手で軽く引っ張りつつ、急ぎ足で歩を進めていた。授業が始まってもうすぐ一週間。教師の話には大して面白みを感じないが、学舎は楽しい、と那都は感じていた。あまり回りに年の近い友人を持たない那都にとって、級友たちとの会話は新鮮であった。
 学舎の昇降口が那都の目に映り、歩みは小走りへと変化する。周りに誰も居ないのをいいことに、教師に見咎められれば即走るなと注意される廊下を一気に走りぬける。勢い良く開いた昇降口の扉の向こうの光景――そこには、誰も居ない――に、那都はにんまりと笑って満足し、少し走ったせいで上がってしまった息を整える。にこにこと笑顔を浮かべたまま那都は昇降口と学舎の門を結ぶように敷かれた石畳の脇に沿うように設けられた花壇に植えてある花々をゆったりと眺める。
 すると、学舎の門から彼女の良く見知った人物が駆け込んでくるのが見えた。
「刀野」
 駆け込んできた人物の名を呼ばうと、那都はますます笑みを深くする。
「とうとう勝ったわ」
 その那都の笑顔に、刀野と呼ばれたくすんだ金色の髪を持つすらりとした女性が苦笑を浮かべる。
「残念です、今日も昇降口の前でお待ちするはずでしたのに」
 2人は、顔を見合わせてふふふと笑いあう。刀野が那都に向けて左手を差し出しながら、帰りましょうかと那都を促す。授業が始まって一週間、毎日刀野が那都を学舎へ迎えに行くのは、最早習慣である。だが、2人は親子でも姉妹でもなかった。刀野は那都の兄にあたる人物の部下である。
「お兄さまは」
 那都は、かれこれ一週間ほど顔を合わせることすらしていない兄の様子を、毎日上司である兄と毎日顔をあわせているであろうはずの刀野に尋ねる。
「お変わりなく。すこし、やつれられたかもしれません」
「そう……」
 刀野の言葉に、那都の刀野とつないだ左手に僅かに力がこもり、顔が暗くかげる。
 刀野はそんな少女の横顔を優しい眼差しで見つめ、僅かに微笑む。
「もうすぐ仕事のほうがひと段落するから、もう少し待ってくれと伝言をお預かりしました」
「ほんと?」
 刀野の言葉に俯き加減だった那都の顔があがり、笑みが浮かぶ。ええ、とこちらも笑みを浮かべながら刀野が答える。途端、那都の手には先程とはまた違う力がこもり、刀野とつないだ手を前後にゆらゆらと揺らす。
 弾むような足取りで那都が歩みを進めるたびに、那都の胸元では鎖に繋がれた蒼い石が共に揺れる。その石が光を弾く様をちらりと見遣る刀野の視線に気付いたのか、那都が僅かに胸をそらすようにして石を刀野の見せる。
「お兄さまにもらったの、お祝いに」
「綺麗な色ですね」
 はにかみながら、いいでしょ、と自慢げに言葉を紡ぐ那都から、刀野は慎重に視線を逸らす。
「でも、これなんていう石なんだろうね? ラピスラズリとも違うし……お兄さまは、たまたま見つけて綺麗だったからって石の名前までは聞かなかったんだって。刀野はわかる?」
 那都の言葉に、刀野の頭に悠氷の言葉がよぎる。もともとは那都の机にしまわれていたという石。
「双子石、と言うのですよ」
「双子石?」
 他の誰でもない悠氷がそう教えてくれたのだという台詞は寸でのところで飲み込む。
「憶えていらっしゃいませんか」
「なにを?」
 きょとんと瞬きをし、刀野の台詞の意味をはかりかねる様子をみせる那都に、刀野はいいえと首を振る。いつの間にか、ゆらゆらと揺らされていた手の動きは止まり、今はただ繋いだだけの掌に、すいと夕方の空気を孕んだ冷たい風が通り抜ける。
 悠氷が最初に刀野のその石を見せてくれた時の台詞のとおり、那都にはその石がもともと自分の机にしまわれていたという記憶がないようだった。そのことに、刀野は小さくため息をつく。それが、どいういう心境のもとに生み出されたものかは彼女自身にもわからなかったが。
(なぜ、悠氷は何も教えないんだろう)
 石の名前でさえ。
 ふと刀野の心によぎった疑問は、那都のあげた驚きの声にかき消される。
「と、刀野!」
 呼ばれて慌てて振り向いた那都の胸元。つい今しがた自分たちが話題にしたばかりの石が、淡く光を放っていた。
 驚きのあまり、慌てて那都と同じ目線になるようにしゃがみこんだ刀野が、那都の胸元で光を放つその石を手にするも、僅かな間に光は消えうせ、2人が呆気に撮られている間に、またもとのただの蒼い石へと戻ってしまう。
「……」
「……」
 言葉もなく、無言で顔を見合わせる2人を置いて行くように、残照が消え、空は夕闇へと姿を変えつつあった。
「今のは」
 いまだ驚愕した表情を張り付かせたまま、那都が刀野へと視線を向けるが、刀野にも那都へ示す明確な答えは無い。首を横に振ることで、那都へ返事を返す。しかし、刀野が石の光るさまを目の当たりにするのは初めてではなかった。
(そう、あの日悠氷の執務室で同じように光る様子を見た)
 ちょっとした仕掛けで光ると言った悠氷の言葉が耳に蘇る。
「那都様、石が光ったのは初めてですか」
「うん。……びっくりした、なんだったのかしら……」
 首にかけた石を外し、目の高さに持ち上げて矯めつ眇めつ眺めながら、那都がどこかぼんやりとした風情で刀野に答える。そんな那都の様子を横目で見遣りつつ、刀野は自らの右手で上着の胸元を握り締めた。きしりと布が軋む音がして、統治局の臙脂色の制服に僅かに皺がよる。そして、那都をとりあえず家に送り届けた後、悠氷を問いたださなくてはと心に密かに決意する。
(悠氷は、石が光る理由も、仕掛けも知っているようだった)
 ならば、なぜ。
 贈った相手である那都には何も説明していないのか。

 先ほどまで、周囲を僅かに明るくしていた残照は、今やすっかり鳴りを潜め、夕闇があたりをすっぽりと覆いつくしていた。刀野は、とっさにしゃがみこんだ際に放してしまった那都の右手を再び取るといまやすっかり通いなれてしまった那都の家へと向けて踏み出した。


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