act02-04

 悠氷、と己を呼ぶ声に悠氷は書類に向けていた視線を上げる。声をしたほうへと顔を向ければ、部下が戸口に立ち此方を見つめていた。
「刀野、どうかした」
 今日は特別彼女に頼んだ用事もなく、夕方の空に移りつつはあるが終業時間まではまだ間がある。この執務室を訪れる理由も無いはずの部下の出現に、悠氷は僅かに首を傾げて見せた。
 一方の刀野は、入り口のところから動かず今は執務机に腰掛け、書類を読んでいたらしい上司の姿に、僅かに躊躇うような様子をみせ、それでもやはり堪え切れなかったのか意を決したように口を開いた。
「……戻られたのですね」
 刀野の言葉に悠氷は今度こそはっきりと首を傾げた。
「何て?」
「いえ、最近よくお出かけのようですし、先ほどもいらっしゃらなかったので」
 刀野の、遠慮がちに探る様子に、悠氷は眉をひそめた。
「仕事はキチンとこなしているだろう、それ以外の私的な時間のことまで拘束されるいわれはないよ」
 悠氷のいう事はもっともで、彼は仕事はきちんとこなしていたし別段業務に支障をきたしているわけでもない。ないのだから、本来刀野が口出しするようなことではなかったが、それでも刀野には気になることがあったのだ。
「例のスラムの子供ですか」
 確信を持って告げる刀野の声に、一瞬だけ書類を掴む悠氷の手が強張ったように見えたが、すぐにその様子は隠されてしまったので実際そうだったのか単に刀野の位置からそう見えただけなのかは判別できなかった。
「……」
「コールドスリープのタイマーが切れて、姿が見えなくなって一年経ちます」
 ちょうど一年前。那都のお祝いと称して悠氷の家で豪華な食事を共にしたあの日の数日前、悠氷が随分と気落ちしてこの部屋に座り込んでいたのを刀野は忘れられずに居た。それは悠氷の職務内容とも、刀野の職務内容とも一切かかわりがなく、完全に悠氷の私的な事であり、詳細は聞き出すことが叶わなかったが、気落ちした悠氷は人を探していたのだと打ち明けた。
 悠氷が就いているフィーアトは番人(ヴェルター)を統括する地位にあり、番人は街の警備などを主に担当する集団を指している。彼らに命じれば探し人の行方などすぐに知れそうなものなのに、悠氷は頑として命令を下すことは無かった。それは、公私混同はしないという悠氷の信念でもあり、刀野にしてみれば統治局という場所を信頼していない態度にもとれた。悠氷は今でも一人で居なくなってしまった子供を捜している。
 そして、ここ数日は頻繁に(それが休日でなく職務の合間でも)居なくなることが多いとなると、刀野としても見過ごすわけには行かなかった。
 いくら業務に支障がなくても頻繁に外出していれば、フィーアトという立場といえど、咎められる場面が無いともいえない。なんとしても、自分の上司が疑われたりするのだけは避けなければならない、と刀野は考えていた。それは、上司が失脚すればまた自分の身も危ないという理由ではなく、純粋な心配からくるものだった。
「それはもういいんだ」
 しばらくの沈黙の後に、悠氷から返された答えを刀野は一瞬理解し損ねた。
「え?」
「もう、いいんだ」
 こちらを真っ直ぐに見つめ、いいんだと繰り返した悠氷の顔には悲壮な感じは無かったので、件の少年に何かが起きて諦めた上での答えではなく、悠氷自身がもう良いと判断した上での答えだったことを知り、刀野は密かに安堵のため息をつく。
 そんな刀野の内心を知ってか知らずにか、悠氷は書類を机の上に置き、ポケットから一粒の石と取り出した。蒼い石からはシャラリと銀の鎖がのぞき、それが首もとを飾るアクセサリーであることが伺える。
「これ、知ってる?」
 問いかける悠氷の穏やかな笑顔に、刀野は戸口から歩みを進めて執務机を挟んだ向い側に立つ。悠氷の掌に乗せられた石をじっと見つめてはみるものの、あいにく刀野にはそれがどういうものかを判別するほどの知識は無い。悠氷もそうだが、刀野も十分若いと称される年齢で統治局へと入ったせいか、同年代の女性が興味を示すような装飾品や宝石類への羨望も知識も、お世辞にも豊かとはいえなかった。
 黙り込む刀野を、からかうでもなく呆れるでもなく見つめた悠氷は双子石というんだと、告げた。
「双子石?」
 聞きなれない単語に、刀野が悠氷の台詞をそのままなぞって問い返す。
「そう、那都の机から失敬してきた」
 いたずらっ子のように笑う悠氷に、え、と刀野はびっくりして顔をあげる。
「去年、那都が見せてくれたんだ。失敬した時はただの石だったから、ちょっと工房に頼んで鎖をつけてもらって、首から掛けられるようにしてもらったんだ」
「そうですか」
 それが、ここ数日の外出の理由かと、刀野はため息をつく。
 再び石に視線を落とした刀野は、先ほどまではただ蒼いだけだった石が、にわかに鈍い光を纏い始めたことに驚き目を見張る。
「悠氷」
 驚いたまま上司の名を呼ぶが、悠氷は別段驚いた様子も見せず、にこりと笑った。
「そのうち、光るんじゃないかなと思ってたんだ」
「え?」
「ちょっとした仕掛けでね、この石は光るんだよ」
 話の筋も意図ももつかめない刀野は困惑げに己の上司を見つめるが、悠氷はそれ以上説明する気も無いのか、石をじっと見つめるだけだ。
「今年の那都への贈り物にしようと思ってね」
「もともと、那都様のものなのでしょう?」
「憶えてないよ、あの子は」
 悠氷が笑って、石をつまみあげる。目の高さにまで持ち上げて、矯めつ眇めつして見ているうちに淡い発光は徐々に消え、ただの蒼へと戻ってゆく。完全に光が消えてから、悠氷は刀野に視線を向けた。
「そろそろ、お祝いの準備が出来た頃かな」
 時計を見れば、終業時間まで僅かも残っていない。今年も、悠氷の自宅では那都と料理長たちが悠氷の帰りを待っていて、ご馳走が用意されているはずなのだった。
「一年というのは、早いものですね」
 刀野のしみじみとした呟きに悠氷が噴出す。
「年寄りじみているな」
「……っ! 悠氷!」
 からかい混じりの上司の声に、思わず頬を染め大声をだした刀野は一瞬の後に我に帰り、すみませんと小さく謝る。
「謝らなくていいよ――それより、今年も来るだろう?」
「は?」
「那都が、今年も刀野が来てくれるかって心配してたから、連れて帰ると約束したんだ」
 笑いながら、悠氷が立ち上がり、扉へ向かって歩き出す。慌ててその背中を追いかける刀野に、振り向いた悠氷が視線を向けてくる。
「……うかがわせて頂きます」
 刀野の返事に、うん、と悠氷が頷いて、扉を開く。
 悠氷が未だ手にしたままのペンダントが揺れて光を弾いた。


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