act01-04

 夜も更けてから、少年は意識を取り戻した。うっすらと目を開くと、白い天井が見える。見覚えのない天井だ…とぼんやりそのまま上を見続けていると、傍らに控えていた医者と思しき人物が、こちらの様子に気付いたようだった。
「目覚めた?」
 声のほうへ顔を向け、目が合ったので頷く。それを見て、相手はホッとしたような笑みを見せた後、沙季を呼んで来るから待ってろと言い残して部屋を出て行き、沙季とは誰かを問う間もなくぱたりと扉の閉まる音がした。少年はゆっくりとした動きで上半身をベッドの上に起こす。そこでようやく室内の様子をぐるりと眺めて、やはり此処は自分の知るところではないと確認する。しかし、少年はそこでふと気付く。
(僕の知るところって……どこ、だ?)
 自分の内心に問いかけて、答えが出ないことをいぶかしむ。
 かちりと音がして、一度閉まった扉が再度開く。顔を覗かせたのは、先ほどの人物ではなく、頭にバンダナを巻きつけた男だった。男は、人あたりの良さそうな笑みをみせ、少年の顔を覗きこんだ。
「気分はどうだ? どこか痛かったりは?」
 問われて、初めて少年は自分の体を眺めたり腕をさすってみたりするが、特に痛みを伴う箇所もなく別段気分も悪くなかったので、首を横に振って答えを返す。
「そっか、ならいいんだ」
 少年の答えに、笑みを深くした男はぽんと少年の頭に手を置き少年の短い茶髪を一度くしゃりとかき混ぜると、手を下ろした。
「此処は暁の国。君は倒れてるところをうちの知り合いが拾ってきたんだ。俺は沙季。――君は?」
 沙季が、見覚えの無い部屋のなかで目覚めた少年の疑問に答えるかのように簡単な説明を述べる。そこで少年は沙季へ答えを返すために口を開いたが、しかしそこから漏れる声はなく、沈黙だけが滑り落ちた。動きが固まったまま、困惑したような表情を見せる少年を見て、沙季の顔から笑顔が消える。もしや、と掠れた沙季の声に被せるように、少年が愕然と呟いた。
「……僕の、名前は……なんていうんだ?」
 二人の間の空気が凍りついた。

 与えられた部屋で、眠ることもせず沙季が知らせに来るのを待っていたキリは、尋ねてきた沙季の思いの外沈んだ表情に、身構える。
「……沙季?」
 言葉を発しない沙季を促すためにキリが名を呼ぶが、キリの声も緊張で硬い。
「目は覚めた……身体的にも問題ないようだった」
 身構えて聞いたわりには、沙季の答えはキリが想像した最悪の事態などではなかったので、ほっと息をつく。
「脅かすな、沙季……悪い知らせかと思ったろ」
「良い知らせばかりでもないぞ。あの少年、記憶が無い」
「……えっ?」
 キリが言葉を失って沙季を見遣るが、沙季からはふざけた雰囲気も撤回の言葉もない。しばらくの沈黙の後、キリが長いため息をつく。
「ため息つきたいのはこっちだ。……どうするんだ?」
 沙季の台詞に、どうしようか、とキリが顔をしかめる。
「名前なら解る」
 男二人は自分たちの傍ら、低い位置から聞こえてきた声に、えっと二人同時に其方を振り向く。男二人を驚かせた雪花は涼やかな表情で一言、
「プレート」
 と告げた。
 あぁ! とキリが納得し、沙季はキリになんのことだと問い正す。
「あの子のポケットに身分証が入ってるはずなんだ……本人のかどうか確かめる術はないけど、もうこの際あれがあの子の名前ってことで」
「……いいのか、そんなんで」
「他にないんだ」
 まぁな、と沙季が肩を竦める。
「で? 名前はなんていうんだ?」
「世威……だったか?」
 キリが雪花に確認を求めると、雪花も頷く。
「世威、ね、了解。名前がわかんねーとどうも声かけづらくてなぁ」
「もう会えるか?」
「会えるぞ。だから来たんだ」
 そうでした、とキリが笑う。沙季はキリと雪花を少年――世威の居る部屋へと案内した。

 室内では世威が、ぽつんとベッドの上に腰掛けていた。記憶がないということに思い当たってからは一言も口を利かないと沙季が説明する。そりゃ、相当なショックだったろうからなぁとキリは考え、努めて明るい顔で世威の前に立った。
「世威?」
 呼びかけられても、それが自分の名前だという認識が無いからか世威はちらと目線を上げただけで返事は無く、空色の瞳も心なしか翳って見える。キリは構わず世威の上着のポケットを指差す。
「そこ、探ってみて」
「?」
 首を傾げつつも、言われるがままにごそごそとポケットを探る。カチリと指先に冷たいものが触れた。引っ張り出すと、それは銀色のプレートだった。
「そこに名前が刻まれてる。多分、君の名前」
「……世威」
 プレートに視線を落としたまま、プレートに書かれた己の名前は、声に出してみれば確かに自分の物であったかのように体になじんだ。とりあえず、己の名前が(憶えはないままでも)判明したことで、1つ安心したのか世威の表情から力が抜ける。世威は持ったままのプレートをもう一度改めて見直す。表には自分の(ものと思しき)名前と見慣れない英数字の羅列。キリもプレートを覗き込み、英数字の羅列を指差す。
「2G59が居住区を表して、300825が生まれた日を表しているんだ。30……てことは15か」
「何が?」
「年が」
 ふぅん、と呟き世威は今度はプレートをひっくり返して裏面を見る。そこにはバーコードとレベル2という文字が刻まれていた。それについてはキリからの説明はなく、じっとみていても思い出せることもないようだった。
 キリは、プレートをひっくりかえして眺めている世威の様子をしばらく黙ってみていたが、そのうち小声でそっと傍らに立ったままの沙季に声をかける。
「……15歳にしちゃ、小柄だね?」
 眉間に皺を寄せて言うほどの台詞かと、沙季は心中でつっこみを入れたが、確かに世威の身長は一般的に考えられる15歳とよばれる年代の身長よりは僅かに低く、立ち並べば雪花より少しに大きいという程度である。雪花の身長が150cmに満たないことを思えば小柄という表現はぴったりであった。
「どのくらい仮死状態になってたか知らないが、氷漬けの間は成長も止まるだろうな」
「なるほど。……言葉とかは問題なく通じるから、生活に必要なことは抜け落ちてないみたいだなー……後付の知識とか、が抜けてんのかな?」
「多分な。……コールドスリープの影響だろうが……ふとした拍子に戻ってくることが無いとも言えない」
 うん、と頷いたキリは、世威を正面から覗き込む。
「オレが見つけたんだからな。トコトン付き合うさ……明日の朝になったら、一緒に帰ろう」
「帰る? 何処へ」
「オレの家は空にあるんだ。びっくりするぜ?」
 にっと笑う表情は、平素のときよりも幼く見える。何がどうびっくりするのかわからないまま、世威はもう一度プレートをポケットにしまおうと左手をポケットに突っ込む。すると、先ほどは気付かなかった硬い感触に行き当たる。プレートをポケットの中に置き、今度は代わりにその硬い感触のものを引っ張り出すと、それは小さな蒼い石だった。
(二つでひとつの)
 記憶を掠める声が聴こえた気がしたが、それはすぐに朧気になり、結局その石が何なのかを世威は思い出すことが出来なかった。だが、捨ててしまうこともはばかられて、そっとその石をポケットの中にしまいこむ。そうして、キリに勧められるまま世威は朝まで眠りに落ちた。


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