act01-03

 キリは、少年の口元あたりに手をかざす。僅かに呼吸しているのが感じられた。キリはホッとしてため息を洩らす。
「生きてる」
 キリの傍らに立ったままその様子を眺めていた雪花は、キリのため息にも呟きにも特に返事を返すことなく、室内をぐるりと見渡している。一通り眺めたら気が済んだのか、跪き少年の様子を検分しているキリの脇に自らもしゃがみこみ、少年の腕に触れた。
「冷たい」
「……さっきまで冷凍保存されてたからね」
 キリは苦笑して己の相棒を見やる。キリの顔は対処に困っています、というのが如実にあらわれていて、雪花はひとつため息をこぼす。彼女の主はこういう事態に直面して見捨てられるほど割り切れる性格ではなかった。
「応急処置なら暁に頼むのが一番近い」
 雪花の言葉にキリは少し表情を緩める。それから、目覚める気配を見せない少年の凍えた体を抱えあげた。その拍子に少年の服からコトリと何かが滑り落ちる。
 雪花が摘み上げたそれは、成人男性の親指より僅かに大きいくらいの銀色のプレート。
「世威……2G59-300825」
 雪花がプレートに彫りこんである文字を読み上げる。
「身分証だな」
 キリの言葉にこくりと頷いた雪花が、少年の服のポケットにプレートを押し込む。

 キリを迎え入れた碧仁は、キリが抱える少年を見遣って一瞬怪訝な顔を見せるが、事情を聞きすぐに傍に控えた側近に声をかける。
沙季(ざき)、医務室へ連れて行ってやれ」
「御意」
 沙季とよばれた碧仁よりいくらか年上の男がキリの腕から少年を預かる。短く刈り込んだ黒髪をバンダナで覆った沙季が心持ち急ぎ足で部屋から退出したのを確認して、碧仁が改めてキリと向き合う。
「真っ直ぐ帰らなかったのか」
 声には若干の呆れを滲ませて。
「……ちょっとだけ、スラムの様子でも見ていこうかな、と思ったんだよ」
 答えるキリはバツの悪そうな表情。
「別に責めてるわけじゃない」
「……そーですか」
 ぼやくキリの声に、碧仁が笑う。雪花は二人に特に構うでもなく、勧められた席に座り出されたお茶に手を伸ばしていた。雪花がふぅと息を吹きかけると湯気がふわりと揺れる。何度か息を吹きかけ冷ました後、様子を伺うように口をつける。ちょうど良い温度だったのか、そのままこくりと飲み込んだ。
「……相変わらずマイペースなお姫さんだな」
「まったくね、涙がでるよ」
 雪花の様子に男二人が毒気を抜かれる。
 すい、と碧仁が表情を改めた。
「で、スラムはどうだった?」
「どうってこともないよ。相変わらずだな。治安も悪いし、健康状態もいまいち」
 キリが顔をしかめて肩を竦める。そうか、と碧仁が呟く。
「あの少年は、どこで?」
「ちょうど、O37区あたりだ――東の」
「うちと湮のど真ん中あたりの、か? ……どこまで『ちょっとだけ』様子を見に行くつもりだったんだ?」
「…………」
 言葉もなく、キリが碧仁から視線を外す。
「だから、責めてるわけじゃない」
「分かってるよ」
 キリは右手で自分の顎をなでる。
「あいつが、居たところ」
「O37区?」
「や、そういう全体的な話じゃなくて、あいつが居た廃屋」
「他にも誰かが居たのか?」
「……生きてる気配は、あいつだけだったけど……なんていうか、荒らされた形跡があったんだよな」
「治安が良くないスラムだ。空き家だと解釈されれば色んな出入りもあるだろう?」
 まぁ、そうなんだけど、とキリが右手を顎に当てたまま天井を見上げる。
「何らかの意図を持って押し入ったような感じがしたんだよ」
「つまり?」
「なんか、狙われるような価値があるのかなって」
 キリの言葉を聞いて碧仁がため息をつく。そうしてちらと視線を横に流すと、すでにお茶を飲み干した雪花がこちらを伺っているのと目が合う。雪花が肩を竦めて見せるのに苦笑して、
「キリ、お前部下にも呆れられてるぞ」
「しょうがねぇじゃん、気になったら放って置けないんだよ」
「あまり深入りするな」
 一応、碧仁が釘を刺す。気をつけます、と殊勝にキリが呟いたところで、雪花がかちりと音をさせて空になったカップを卓上に置いた。その音を聴いて、キリが心持ちがくりとうな垂れる。そもそも気配に気付いたのは雪花のくせに、なんだそのしらけっぷり、とぶつぶつと文句を言う。そんなキリをまぁまぁ、と碧仁が宥める。
「で、このまま診察が終わるのを待つか?」
「どんくらいかかる?」
「さぁな……流石に、冷凍されてた人間を診察するのは初めてだから読めないな」
 暁は神への信仰が深く、民のほぼ全てが生まれて一月に満たないうちに洗礼を受ける。そうすることで神の奇跡の一部をその身に再現することができると言われている。どのような能力がその身に宿るかは個人差があるが、最も優秀と言われるものは治癒能力だった。また、能力に頼るだけでなく、薬草などの研究にも余念がなかったことから、暁の医療技術は共和国のそれよりもはるかに秀でていた。
「前例無し?」
「ある訳ないだろ……そもそも、冷凍保存の技術なんざ、必要としてない」
「だな。オレもいらね」
 キリは、雪花のほうを一瞬見て、また天井へ視線を投げかけ、碧仁に視線を戻す。
「とりあえず、明日まで待たしてくれない? 一日待って目覚めなければ、そのまま連れて帰る」
 雪花が言うとおりの睡眠装置であれば、命に別状はないだろうし、見たところ外傷も見受けられなかったことから、碧仁が頷き了承の意を伝える。
「部屋は何時ものところを使え。あとで沙季に患者の様子を報告させる」
「うん、ありがとう」
 キリが朗らかに笑って礼を述べるのと同時に、雪花が席を立ちキリの隣に立ち並ぶ。傍に来た相棒の小さな頭にぽんと一度手を置いてからキリはその手を碧仁に向けてひらりと振って部屋の出口へと足を向ける。雪花がその背を追うように後に続き、二人の姿が扉の外に消える。それを視線で見送ってから、やれやれと碧仁はため息をついた。


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