Act08-05

 この前通された部屋と同じ部屋に再び入り、碧仁と向き合う。今度はテーブルの上には何も用意されてはおらず、碧仁にとってこの訪問が想定外の出来事であったことが知れた。しかし、勢い込んで訪ねてきたはずの藍嘩も、どのように話を切り出すべきかきっかけを掴みそこね、案内された席に着いたままうろうろと視線を彷徨わせていた。藍嘩にとって氷花も刹那もいないことも誤算であった。決して社交性があるとは言いがたい藍嘩が、初対面にほぼ近い状態の碧仁と二人きりでスムーズに会話を進めるのは容易ではなかった。藍嘩は、はぁと内心でため息をつくが、気を取り直して碧仁の顔を正面から見据える。
(ここへ来るって決めたのは、私なんだもの)
 まずは、第一声をと想った矢先。
 気まずい沈黙を、軽やかに破るように扉がノックされ、顔を覗かせたのは、ノックの音の軽やかさからは想像もできない体格のいい青年であった。身に着けた衣装は碧仁とよく似た色合いのものだったが、幾分か簡素化されている。頭には大きなバンダナを巻きつけており、そこから垣間見える髪の毛は黒く短い。
「若、お茶を」
「あぁ沙季。その辺に適当に置いといてくれ」
「そうはいかんでしょうが…お客さんも居るのに」
 と、言いながらするりと部屋に入り込んだ沙季と呼ばれた青年は室内の様子をぐるりと見渡す。
「…通夜でもやりそうな空気ですね」
「なんだそりゃ」
 碧仁が苦笑を滲ませる。
 一方の藍嘩は、まさに出鼻をくじかれた感じではあったが、沙季が室内に入ってきた事で場の空気が少し和らいだことを感じ、緊張を解く。沙季が入れるお茶の香りがほのかに室内に漂う。
「それで、藍嘩は何が聞きたかったんだ?」
 水を向けられて、沙季から湯飲みを受け取っていた藍嘩が姿勢を正す。
「王に、なるって言ってましたよね」
「あぁ。この前な」
 阻止しにきたか?と肩を竦める碧仁に首を振って答える。
「王を志すって、どういう気持ちなんでしょう」
 藍嘩の台詞に、静かに退出しかけていた沙季が扉の手前で振り返る。その沙季へ、碧仁は僅かに顎をしゃくり、退出を促す。そして、沙季が退出し扉が閉まったのを確認して、視線を藍嘩へと戻す。
「どういうって?」
 僅かに声に慎重さを滲ませ、注意深く碧仁が問い返す。
「藍嘩も、王になりたいのか?」
 碧仁の問いかけに、藍嘩はどう答えるべきかしばし戸惑う。手に持ったままだった湯のみをそのまま目の前のテーブルにそっと置き、一度目を伏せる。
「どうすべきか、迷っているの」
 だから、と小さく言葉を繋ぐ。
「だから、王になろうとしてる貴方の話を聞いてみたいと想って。」
 すい、と挙げられた視線は真っ直ぐ碧仁を見つめる。その視線を此方も正面から受け止め、碧仁は一度だけ右手に視線を落とす。右手を握り、すぐに開く。
「相当な、覚悟が要るとは想っている。」
「覚悟」
 碧仁の言葉に、藍嘩は神妙に頷く。
「他の国がどうかは知らないが…、暁ではまず、神は俺たちのためにいるのではないと知るところからはじまるんだと想う。」
「え?」
 頷いた藍嘩をみて、続けられた碧仁の言葉に、藍嘩は驚き目を見張る。瞬きするほどの僅かの間、沈黙が落ちる。
「確かに、此処は神を信仰する国だが、神は俺たちのためだけに存在するわけじゃない。これだけ信じているんだからきっと救いの手を差し伸べてくれる…ていうのは、俺たち信じる側の理屈だ。神は、それを超越したところにいる、と想っている。そもそも、見返りを求めて信仰するっていうのも、違う気もするしな。」
 しごくあっさりと言葉を発した碧仁に、藍嘩のほうが言葉を失う。動きの止まった藍嘩を見遣り、碧仁さらに言葉を紡ぐ。
「神が存在することは否定のしようもない。俺たちの一族が他よりも遙かに長い寿命を持っていることを神の恩恵というなら、その通りだしな。だが、神は神の理由をもってのみ存在する。」
 沙季が置いていった茶器から立ち上る湯気が二人の間を横切る。
「神世には、明確な(ことわり)があり、神官が読み解く。その制約の中で最善を選び進むのが民。そして、王は、彼らが迷うときに長たるものとして決断を下す…そういうものだと、父から教わった。」
「決断を、」
「そう。その代わり決断には責任も伴うがな。時に失敗すれば命を失うこともあるだろうし。それでも、王は民には下せない決断を下すためにいるんだと想う。そこだけ覚悟していれば、いいんじゃないか」
 一度藍嘩がテーブルに戻した湯飲みを、碧仁が手に取り、再び藍嘩に差し出す。受け取り、一口飲んだ後、藍嘩は小さくため息をつく。
「怖いと想ったことはないですか」
「何を?」
「民から、王として望まれていなんじゃないかって」
 湯飲みを口に運びかけた碧仁の動きがしばし止まる。ごくりと飲み干した後、くしゃりと表情を歪ませる。
「その自問なら何度もした。だが、いつも行きつく答えは同じだった」
 視線を藍嘩から逸らし窓の外に投げかける。
「父が愛した国が酷い有様に変貌していくのを黙ってみていられるほどおとなしくないんだ」
 藍嘩は持ったままの湯飲みを握る手に、力を込める。果たして、そこまで国を愛する気持ちが、民を想う心が自分にはあるだろうか。再び碧仁が視線を藍嘩に戻す。
「仮に、独裁者でも王位に付くその瞬間にはやっぱり民意があったのだと想う。自分の得についてだけ考えたものたちだけの集まりだとしても、民には違いないしな。あるいは、強いカリスマで任せても大丈夫だと思わせるとか。梁の王が未だに在位しているのだって、他国からの視線はどうあれ梁王としては彼がぴか一だという証拠だし。……占で王を選ぶのだって、一見占という方法に頼ってはいるけれど、それで選ばれた王になら任せられるという民意が存在するから成立するんだ」
 碧仁の言葉に、藍嘩が目を瞠る。キリと心臓辺りが締め付けられる感触がして、湯飲みを持つ手が震えた。
「氷花から、少しだけ聞いたんだ。藍嘩のこと」
「そう、ですか…」
 表情の強張った藍嘩に碧仁が苦笑する。
「別に、そのことについてどうこう言うつもりもするつもりもない、というか、今そこまで構ってる余裕が無い…だが、もし藍嘩が王になろうとするなら…ひとりじゃ無理だ。協力してくれる人が必要になる。」
 碧仁の言葉に、知らず肩に入っていた力を抜く。それから少したわいも無い話をして藍嘩は碧仁の居るフラットを後にした。道すがら碧仁との会話を胸中で反復する。
 育ったところを大切に想う気持ちが藍嘩にも無いわけでない。だからといって、王になるほどの覚悟も今はまだ持ち合わせていない。そもそも、占で選出されるといわれる清姫ではあるが、王の一族のなかから選出される率が高いと学舎では教わっていたはずなのに。
 考えて歩くうちに、歩みが止まっていたのか人並みに軽く背中を押されて、自分が通行の邪魔をしていたことを知り、慌てて前へ踏み出す。王になる覚悟はまだ無いが、自ら命を捧げるほど諦めがいいわけでもない。それならば、どうすればいいのかを考えなくては。


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