Act08-04

 再び碧仁に会いに行くという藍嘩は、着いていくと言い張る叉牙を振り切り、一人フラットを出た。その藍嘩を特に引き止める様子も無かった凍冴は、窓から藍嘩の背中が雑踏に消え行くのを見遣ってから、静かに自らもフラットを抜け出る。そして、音も無くその跡を密やかに着いていく。
 背後で、叉牙が何か悪態をついていた気がするが黙殺する。ゴツと何かがぶつかる音がしていたから恐らく儀月の拳がモノを言ったのだろうとあたりをつけ、一人、にやりと笑う。表情を引き締めて、凍冴は改めて藍嘩が消えた方角を見極める。叉牙に大まかな場所は聞いたから、藍嘩を見失ったとしても迷うことは無いだろう、と高をくくる。それでも僅かに早めた歩調のおかげか、いくらも進まないうちに藍嘩の背中を見つけることができた。
 一方の藍嘩は、一度辿った道でありながらまだ覚束ない箇所があるのか、時々道を確かめるように左右を見遣りながらゆったりとした足取りで進んでいた。やがて見えてきたアパートは当然ながら、今現在凍冴たちが身をおいているアパートとさして変わりのない、スラムにおいてはごく一般的なものであった。
 藍嘩がその中へと戸惑い無く進むのを見送って、さてどうしようかと凍冴は思案する。凍冴が此処を訪れたのは、藍嘩とはちがう目的があったからだ。
「随分と、珍しいところに珍しい人が居るものね」
 予想もしなかった声が背後から聴こえ、凍冴は一瞬ぎくりと身をこわばらせるが、すぐに表情を取り繕い振り返る。にこやかな笑顔のおまけ付だ。
「それはお互いさま、といえると想うがね」
 振り返った先には、買出しにでも出かけていたのか、買い物袋を抱えた氷花が居た。凍冴の笑顔をみて隠しもせず眉を顰める。
「逢引の邪魔でもしにきたわけ?」
 視線をちらりと藍嘩が入っていったであろうフラットの一室のほうへ投げかけて氷花が問う。
「そこまで野暮ではないつもりだ」
「じゃあ、何よ」
 訝る氷花に、ますます笑みを深くして凍冴は楽しげに笑う。
「枯れぬ花の姫君に逢いに」
「…なに、アンタ、アタシに逢いに来たわけ?」
 ご名答、と朗らかに凍冴が答えた。

 すでにフラットでは藍嘩と碧仁が対面を果たしているはずであり、込み入った話であることはお互い様だが室内には戻りづらく、氷花と凍冴は一先ず木陰へと移動する。木の根本に持っていた袋を一端下し、そのまま木の幹へと寄り掛かる氷花から一歩はなれて凍冴は正面から向き合って佇む。
「それで、何の用」
 凍冴の視線よりもかなり下のほうから見上げてくるヘーゼルブラウンの瞳は必ずしも友好的な色合いを宿しているとは言いがたい。
「前暁王の忘れ形見と懇意にしてると聞いたが?」
「藍嘩から?それとも叉牙かしら」
「ここ数日の調査結果だよ」
「邪魔でもする?」
 くるりと瞳を動かして、この状況を面白がる風を見せるのは、虚構でも強がりでもなく凍冴のお手並みを拝見しようというつもりなのだろうか。口角を釣り上げて不敵に笑う。
「ウチが蒋を攻めたとき、この前の清姫の時…今回の暁。いずれもきな臭いところばかりで会う」
「依頼を受けてるからよ」
「いつもこういう場面で出くわす気がするのは気のせい…ではないな」
「どうかしら?」
 表情を崩すことなく、氷花はひょいと肩を竦めて見せる。そのおどけた様に凍冴は浅くため息をつく。
「いつも、歴史が動く時には斎が背後にいる」
「随分と買いかぶってくれるのね」
「明らかに勝者になるであろうと想われても、斎王が動けばそれもひっくり返る」
 誰もが持ち得ない特殊な能力を武器に、人ならざるものを使役する一族はいつも歴史の影で暗躍していた。それは、いつの時代でも報酬への見返りとして捧げられたものではあったけれど、彼らはいつだってきちんと仕事を選んでいたではないか。
「そうやって、権力を均一に均してきたわけ、か。小さな戦乱だけで大戦を引き起こさないように」
 その言葉に氷花はヘーゼルブラウンの瞳を細める。
「覇者が必ずしも賢者とは限らないもの」
 大陸を平和に保つため一人の王に総てを委ねてこの大陸を纏め上げることは、一族の力を用いればさしたる苦ではないと想像できたが、その王とて永劫在位するわけにはいかない。あるいはその王を倒そうというものが現れないとも限らない。そうすれば結局は元の木阿弥。
「力を持ちながら、表舞台には決して出ず、しかし歴史の勝者の影には必ず斎の助力が必要ってね…随分まわりくどい手だな」
「その方が、歴史を自分たちで切り開いているっていう実感があるでしょう?」
「そう仕向けられた結果だと、知らなければね」
 凍冴の言葉に氷花はふわりと笑う。
「アタシを断罪するとしたらアンタだと想ってたわ」
「…なぜ、今回は、好きにさせる?」
「新しい歴史が産まれる瞬間を見て見てもいいかと想ったから、かしら」
 ふいにそれまできついほどの視線を投げかけていた氷花が凍冴から視線を外す。遠い空を見遣るように視線を投げて、
「そろそろ、一歩踏み出すべきだと、想わない?」
 再び視線を凍冴に戻す。
「それに、アンタは覇者たりえない…賢者とも言えないけれど」
「褒め言葉として、受け取っておいたほうがいいかな?」
「だからこそ、乗ってみてもいいかと想ったのだけど」
 笑う顔は、いつになく穏やかで優しいものだった。

 その笑顔に呆気にとられ、固まること数秒。突然巻き起こった風に、凍冴は顔を庇い一歩下がる。風がおさまる気配に目を薄く開けば、どこから現れたのか銀髪の青年が、凍冴と氷花の間を割るように立ちふさがっていた。
「刹那」
 氷花を背に庇うように凍冴に向き合った刹那は、背後からかかる声に肩越しに振り返り、無言のまま凍冴に向き直る。
「買い物袋抱えたまま行方不明になんな。晩飯が食えなくなる」
 しばらくの沈黙の後に刹那から氷花へ投げかけられた台詞はあまりにも場にそぐわないもので、
「…。」
 どす、と鈍い音がして、どうやら氷花が刹那の背中をなぐりつけたらしいことが、一瞬彼の身体が傾いだことから推し量られた。数秒前までのどことなく緊迫した空気が払拭され、凍冴自身も肩からふと力を抜く。
騎士(ナイト)のお出ましか」
 その物言いが気に入らなかったのか、刹那の濃く紅い瞳がすっと凍冴を睨むように細められる。
「俺が出てきたのは、こいつのためじゃなくてあんたのため」
「俺?」
「どっちかってーと、怪我すんのはあんたのほうだろ」
 ぶっきらぼうに紡がれる言葉はおどけた空気を滲ませてはいたが、ところどころに敵意を感じるのはきっと気のせいではない。
「喧嘩を売りにきたわけじゃない。ただ、確かめたかっただけだ」
「そーかよ。で、終わったの?」
「たぶんね」
「じゃ、とっとと帰ったほうが身のためだぜ?」
 あからさまに追い返そうとする態度に凍冴は心中で苦笑する。主が主なら、従うほうも同じように不敵だ。
「藍嘩は、無事に帰してくれるんだろうね?」
「あんたのモンでもないだろよ」
「でも、今のところはうちの預かりだ」
「…日暮れ前には帰す」
 了解した、と返事をして、潔くきびすを返す。当然ながら引き止める声などあるはずもなく凍冴は歩みを進める。見送る氷花の髪を不意に刹那がくしゃりとかき混ぜる。抗議するために顔を上げるよりも僅かに早くそのまま腕の中に頭ごと抱き込まれた。
「何よ」
「別に」
「離しなさい」
「後でな」
 深くため息をついて抵抗を諦める。
「…心配性」
「うっせぇ」


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