Act05-03

 スラムをすすむうち、否が応でもココがどんなところであるかを理解せざるを得ない状況に陥る場面が何度もあった。酔っ払いや薬の中毒者、怪しげな呪い師、娼婦、色んな人生がひしめき合い暮らしていた。大抵はそれらから身を隠すように進み、時々隠し切れないときにはただ逃げた。
「そんなにさぁ、怯えないで、こっち出て来いよ」
 逃げ切れず、追い詰められた路地裏で数人の男に囲まれて藍嘩は途方に暮れる。一定の距離を保ったままそれ以上は近づいてこようとはせず、不快な笑みを張り付かせたままじっとこちらの様子を伺っている。逃げ場はないと思い知らせる為なのか単なる余興を楽しんでいるつもりなのか。道を阻む建物の中にも人がいるのは気配でわかるのだが、かかわりたくないのか面白がっているのか、係わり合いになろうとするモノはない。当然助けなど求められるはずもない。
 そろり、と右手を腰元にもっていく。確かな存在感を放つ銃を確かめるが、ただ一度使っただけのもので身を護りきれるはずがないと、自覚している。
(どうしよう)
 逃げ道はどこにもない。
 かといって、いつかの氷花のように撃退することもできない。
(どうする、どうしたらいい?)
 氷花なら軽蔑のまなざしで不機嫌さを隠すこともなく蔑むであろう輩を、ただ見つめながら藍嘩は考えをめぐらせた。


「あのさぁ、そこ通行の邪魔なんだけど」


 予想もしてない部外者の割り込みに、藍嘩も男たちもギクリと肩を震わせた。
 振り向くと、年の頃は藍嘩と同じくらいだろうか、藍嘩より幾分明るい茶色の髪と空色の瞳を持つ少年が此方を見つめていた。
「…なんだぁ?てめぇは」
「…いや、だからそこ、通行の邪魔」
「回り道しろよ」
「そこ抜けるのが一番早いし、遠回りするのは面倒じゃん」
「…!」
 挑発なのか、単なる天然なのか。だが、男たちには挑発と取られたようだった。
「いい度胸してるじゃねぇか、小僧」
 台詞を言い終えないうちに、男たちは少年にいっせいに向かっていった。



「……いてぇ〜」
 数分の後、立っているのは少年だけとなっていた。
「……」
 喧嘩、というのを間近で見たのは初めてだった。以前氷花も藍嘩の目の前で大立ち回りを演じて見せたことがあったようだが、あの時は自分は半ば正気ではなかったし。掴みかかる自分よりガタイの大きな男たちを殴ったり投げたり、蹴ったりして次々に伸していく姿はいっそ痛快なほどではあったけれど。
 目の前で起こったことの衝撃に呆然としていると、少年が藍嘩の脇を通り過ぎようとする。
「あの!」
「へ?」
 振り向いた顔があまりにも…間抜けだったので、思わず噴出してしまった。
 聞けば少年はこのスラムの住人ではなく、旅の途中であるらしかった。かつて蒋とよばれる國の、今は梁國の一部となっている外れにある小さな村に宿をとっていて、たまたま買出しに来たところに騒ぎに巻き込まれた、と説明される。
「スラムで買ったほうが安いものもあるんだ」
「そうなの」
 その後、御礼を言おうとしても、そういうつもりじゃなくほんとにたまたまだったのだと謙遜されるので、藍嘩も段々意地になり、気付けば少年の荷物を半ば奪い取るように半分持つ、という行為で感謝の気持ちを表現することで自分の気持ちを納得させる。
「や、悪かったな〜」
 からりと笑って、少年が泊まっているという宿のまえで御礼を述べられて初めて、しまった図々しすぎたかと慌てるも、後の祭りで。
「御礼を言うのはこっちだから」
「だからさ、別にそのつもりであそこ通ったわけじゃねぇから!」
 たまたまだよ、たまたま!となおも言い張る少年に、思わず浮かんだ笑みは隠しようもない。藍嘩の表情の変化を見咎めた少年が僅かに表情を拗ねさせるとますます笑いが止まらなくなった。ひとしきり笑ったあと、それじゃあときびすを返し、立ち去ろうとする藍嘩を少年が呼び止める。
「どっか行くのか?」
 特にあてがあるわけではない。けれど、先ほどの少年の話によると、ココは梁國の端っこだ。かつて蒋の国ではあったこの場所にそうそう梁の偉い身分の人間が来るとは思えないし即見付かることはないのではないかと思いはするけれど、自分の身が梁の人間にとって狙う価値があると知ってしまった以上はココにいるのは得策ではない気がした。
「…できるだけ遠くに」
「遠く?」
「……えっと、じゃあ行くから」
「え、ちょ、ちょっと!」
 思わず、といった風に右手を掴まれて藍嘩の身体が僅かにバランスを崩す。
「また、スラムに戻ったら危ねぇし!えーっと、この宿部屋もあいてるみてぇだし、寄ってけば?」
「……。」
 ぽかんと見返した先の必死な視線に掴まれた右手が熱を持つのがわかった。
「ぷ」
「あ、笑うなよ!」
「だって…!」
 そんな自分の家じゃないのによっていけばだなんて!と笑うとますます少年が憤慨するのがおかしくて、涙が止まらないほどだった。



 藍嘩が去ったあとのフラットでは、氷花が刹那に詰め寄っていた。
「何で止めなかったの!」
「必要がねぇから」
「必要ないわけないでしょ!スラムで一人生きていける子じゃないのよ?!」
「でも、出て行ったのはあいつ」
「ーっ、刹那!」
「…氷花、オマエ何様?」
「…」
 ハラハラと氷花たちの口論の行方を見守るユウリとキリの姿が扉の向こうからちらちらと見えている。その姿を視界の端にとらえて刹那は重々しくため息をついた。
「落ち着けよ、オマエは清の味方?だったら今すぐ殺してやるぜ?」
 言葉に詰まる主を苦々しく笑う。
「今回の件ではちっと感情的になりすぎだな。」
「……」
 目を合わせないのは予想の範囲内だから見逃す。
「ユウリとキリにみっともないとこ見せんなよ」
 言葉を残して部屋を出る。閉めた扉の向こうで激しくなにかが壊れる音がしたが、気にするなと己に言い聞かせる。
「刹那、」
 不安げに見上げるキリの髪をくしゃりとかき混ぜてやる。
「たまには説教もいいだろ?」
 いつも怒られてばっかりじゃねーんだぜとおどけて見せると小さく笑い返す声が聴こえた。


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