Act05-02

 戻ってきたフラットの一室で、窓辺に座りキリの手当てを受けるユウリのそばで氷花が重いため息をつく。
「説明して、ユウリ。」
「…刹那からお聞きになりませんでしたか」
「聞いた。あの、清都のバカ野郎が藍嘩脅して力を暴走させたんでしょ。」
「それですべてです」
 そのユウリの言葉に、目じりを釣り上げ氷花がユウリのほうを睨む。薄く差し込む明かりは僅かな月明かりで、氷花の怒りをひやりと浮かび上がらせた。
「それじゃ、あんたの怪我の説明にはならないわ」
「…」
 キリがユウリの右腕にきっちりと包帯を巻きつけた後、ちらと氷花を見上げる。
「庇ったんだよ、清都の人を」
「…キリ!」
 ギクリと身を震わせ、ユウリがさえぎるも既におそく。氷花はやれやれと肩をすくめ、これ見よがしにため息をついてみせる。
「お人よしにもほどがあるわ。清都の馬鹿な男なんかかばわなくていいのよ!…そんな傷まで作って」
「つい…身体が動いてしまいました。申し訳ありません」
「べっつに、謝らなくてもいいわ」
 ふいと視線そ逸らせる氷花に、キリとユウリが同様に苦笑を浮かべて目を見合わせる。
「心配をおかけして、申し訳ありません」
「だから−…」
「顔に出てるよ、氷花」
 悪戯小僧のような表情を浮かべて、キリがからかう。
「な…っ、誰が!」
「姉ちゃんも悪いと思ってるようだからさ許してやってよ。」
「……しょうがないわね」
「ありがとうございます。」
 くすくすとこぼれるような笑い声に、ようやく氷花が表情を緩めた。

 氷花たち三人が居る部屋とは壁をはさんだとなりの部屋では、先程気を失ったきり目を覚まさない藍嘩が一人横たわっていた。入り口で、刹那が中の様子を伺うでもなく、扉にもたれて立っている。
「…どう、目を覚ましそう?」
 氷花が部屋から顔を覗かせてたずねるも、刹那はただ首を横に振りそれに答える。
「ユウリは」
「大丈夫そう」
 そっか、よかったな。と声に安堵の色を滲ませながら刹那が肩の力を抜く。
「こっちのほうが重症かもな」
「そうね…色々慣れてないでしょうからね」
 開かない扉の中を気遣って、小さな声で会話を続ける。氷花たちは旅から旅への生活を繰り返している。このスラムではしばらく家を空けるといつのまにかその家が他人の住処になっていたりするので、氷花たちは常に数箇所の安心して身をおける場所を持っている。その安心できる場所であるはずの、部屋の空気が今は僅かに重い。見慣れた扉が、冷たく感じる。
 小さくため息をついて、氷花が視線を落とす。
「このままココで見張ってても仕方ないわ。今日は休みましょう。」
 そうして、刹那の返事を待たずに、氷花はユウリたちが控える部屋へときびすを返した。二、三言なにごとかを話す声が聴こえた後、再び氷花が顔を覗かせ、後ろ手に出てきた部屋の扉を閉ざす。このフラットは全部で3部屋あり、浴室と小さな台所を備えている。すべての部屋に寝具があるわけではないが、藍嘩が寝ている部屋とユウリたちが居る部屋にはそれぞれきちんとベッドが備わっている。
「しゃーねぇなぁ、俺床?」
「ほかにないでしょ」
「へいへい。」
 声にわざとしょうがないとう空気を滲ませて、刹那がニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。「添い寝してやろうか」などとそのニヤニヤ笑顔を貼り付けたままからかうように言葉を吐き出す。
 氷花から無言で飛んできたこぶしを笑って交わして、残る一室に共に向かう。そこは小さな台所と続きになったフローリングの部屋で、簡易ベッドにもなるソファを1つ備えている。南に面した、他の二部屋よりも大きめに取られた窓からは下弦の月が顔を覗かせていた。
 もうすぐ夜明けだなぁと刹那がぼやく声を聞きながら、氷花はソファの上に上掛けをひっぱりあげ、ソファと上掛けの間に埋もれるように身を横たえた。



 下弦の月が西に傾き、しらじらと夜が明けるころ。隣室の気配が静かになったのを見計らって、藍嘩はベッドの上に身を起こした。そろり、と布団をめくり、ゆっくりと床に足を下ろす。足音をたてないように慎重に一歩ずつ進み、扉の前で耳を済ませる。
 待つこと5秒。
(…大丈夫、かな)
 静かに、静かに扉を開く。一度、取っ手が軋む音に身をすくめるが、どちらの隣からも何の変化も窺えなかったことに安堵し、また静かに扉を開く。部屋から抜け出すことに成功した後は簡単だった。与えられた銃の感触を、右腰に確かめてから、フラットを一歩飛び出す。慎重に玄関の扉を閉めて、ため息をついた。
 今しも朝日が昇るところで、その光の中にあれば、雑然としたスラムの一角でさえも美しい風景であるように感じられた。コンクリートがむき出しのフラットのひび割れさえも。
 左右を見渡し、一瞬だけどちらへ歩き出そうか思案する。そのまま東へ、朝日が顔を出す方向へ足を向ける。崩れ落ちそうな鉄板が張られた階段を一段ずつ踏みしめながらおり、角を曲がる間際に一度だけ振り向いて、氷花たちのまだ寝てるであろうフラットを見上げる。だが、そのまま戻ることはなく再度前を向き、今度は留まることなく角を曲がる。
 本当は、刹那が扉の外で自分の目覚めをしばらく待っていたと知っていた。氷花が心配していることも。だが、自分は気付かないフリをしてみんなの目を盗み、一人逃げ出して、こんなところを走っている。その衝動がどこから来るものか気付いてはいたが突き詰めるのは恐ろしかった。「慣れてない」と氷花が言うのが聴こえたが、なれるなれないの問題ではない。きっとちがう。
 気が向くままに(もちろん地図など知る良しもない)、ひたすら走り続けざわざわと人が動き出す気配がし始める頃。見知った場所に行き当たった。
(…ここ)
 そう、昨日みずからが人を傷つけ瓦礫の山を気付いた場所。その時は取り乱していて解らなかったが、改めて見ると、建物が数棟ボロボロになっている。もう人は住めそうにない。キョロキョロとあたりをみまわしてみるが、昨日自分を追いかけていた男たちはもうどこにも見えなかった。怪我をしただろうか、それとも……。
 そこまで思考をめぐらせて、ふるふると頭を左右に降る。大きく深呼吸をひとつ。
「私のせいだ」
 声に出してみると思いの外悲壮な感じではなかったので、そのことに少し笑う。
 狙われるのは自分のあずかり知らない能力のせいだということは理解した。命を狙われ姉が襲われた。そのことは理不尽だと怒りもする。だが、
「あの人たちは私のせいで傷ついた」
 清都の出身だと言っていた黒髪の男、自分よりも年下であろう少女、叉牙と名乗った少年。
 そのことは言い逃れが出来ない事実だ。それを正当防衛だと言い張るのは簡単なことなのかもしれない。
 けれど、
 また同じことがあるかもしれないと恐れる気持ちを覆す術を知らない。災いが自分にあるのなら出来るだけ遠のいたほうがいい。決意を秘めた表情の藍嘩の髪をわずかに風が揺らした。



 藍嘩が姿を消した方角を、窓から眺める人影ひとつ。
 曲がり角を完全に曲がりきって姿が見えなくなるのを確認してから視線を外した刹那は、ソファのうえで丸まったまま、珍しく深い眠りについている氷花を眺める。そろそろ日が昇るし、スラムの住人たちも活動し始める時間だろうか。
 たぶん、まだ眠る氷花は、自分が藍嘩が出て行くのをみすみす見逃したと知ったら烈火のごとく怒るだろう。たが、刹那は追いかける気持ちはさらさらなかったし、あの少女がどうなろうと興味はなかった。今仮に氷花が目覚めていて藍嘩を追いかけようとしたら全力で阻止するであろうほど。自分にとって他国の、ましてや出会ったばかりの命などとるにたらない存在なのだと改めて認識する。護るべきはただ一つで、命じられれば大抵のことは受け入れるが、意志なく動いているわけではないのだ。将来的に護るべきものに危害を加えるのではないかと懸念される要素は先読みしてできるだけ遠ざける。
 自分から遠ざかるとは想ってなかったけどな。
 その点だけは、たいしたものだと想う。そうして一度のびをして首を左右に僅かずつ傾ける。鈍い音をさせて首の関節が鳴り、思いの外大きな音だったことに僅かに首をすくめる。硬い床で寝たせいだ、とあくびをしてからもう一度ごろりと横になる。まだ誰も起きてくる気配はない。もう一眠りする時間はあるだろう。


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