彼の人を、知らなかったわけではない。

 特に親しい間柄はなかったが、クラスメイトであるから、校舎内ですれ違えば挨拶は交わす。他のクラスの「顔だけ知っている」人よりは距離も近く、クラスの行事等で共に作業を行う機会があれば面と向かって話もする、そんな距離感の相手。
 彼の人の名を、ジークヴァルド=グリューネヴェラーという。

 アカデミーに入学し、何度目かの実力テストの結果が掲示板に張り出されているのを横目に見つつ、ブランカは一路図書館へ向って歩みを進める。ブランカにとって、その結果は毎度然程代わり映えのするものではなく、張り出されるのも上位数十名だけなので、そこに自分の名はないことは既に認識している。教科によっては名前が記載されているものもあったが、それについても代わり映えのしないものであったので、歩みを止める要素にはならない。彼女の、今最も関心のあるものは、手の中にある課題の束だ。
 暗記モノにはめっぽう強いのになぁ、とため息まじりにブランカの成績を眺めながら面談を行った教師の表情を思い出し、少し申し訳ない気にもなるが、理論を暗記できても結果に結びつかない応用モノは、ブランカの最も苦手とする分野だった。逆に、覚えてしまえばそれが回答に直結する歴史等は得意科目だ。
 とりあえず、あまりにお粗末な応用系教科の成績を少しでも改善すべく、補講課題をたんまり出されてしまったブランカは、手に持つ書類の束を抱え直す。それほど量はないはずの手の中の紙たちが、ずしりと重い気がするのは、ブランカの気持ちの現れか。

 冬の空気を纏い、冷えきった外とは対照的に、図書館の中はやや暖か過ぎるくらいの暖房が効いており、その暖気にほぅ、と小さなため息を零しながらブランカは閲覧スペース窓側の空いてる席に手に持つ課題の束をそろり、と降ろす。その席は、ちょうど窓から外の日差しが柔らかく差し込み、日だまりがほんのりとした春のような空間を作り出していた。ブランカの、いっとうお気に入りの席だ。
 いつもなら、この席に座って好きな美術書等を読むのだが、本日の目的は生憎課題に取り組む為なので、じとり、と恨めしげに課題の束を見遣った後に、ブランカは参考書として教師が上げ連ねた書籍を探すため、書架へと足を向けた。
 頭の中で目当ての書籍の背表紙を思い浮かべる。それから、その書籍が収められている書棚とその書棚が館内の何処に配置されているかを思い出す。写真の様に次々と脳内に浮かぶ映像を、紙芝居のようにくるくると切り替えながら、ブランカは書棚の間を渡り歩く。一度見たものを、写真のように記憶しておく事ができる、というのがちょっと人とは変わった才能であるのだと気付いたのはアカデミーに入ってからだ。だからといって特に得することもないのだが、こうやって蔵書を探すとき、暗記モノのテストの時等にはブランカを助けてくれる。最も、彼女が興味を持って眺めたものしか記憶できないので(今の所)、覚える気がないものについては全く覚えていないという欠点もあるわけだが。
 よどみなく歩みを進め、目当ての書棚にたどり着いたブランカは、そこで「あ」と動きを止める。書棚の位置もさらには書棚の中の何段目のどこ位置に入っているかも把握していたが、
(高すぎて、届かない……)
 目的の書籍は、書棚の最も高い位置に収められており、ブランカが目一杯背伸びしてもその背表紙に触れる事もできない。
 場所を把握していてもこれでは意味がない。ため息を一つ落とし、ブランカは踏み台を借りる為、司書が居る貸出し台へと踏み出そうとした。
「取りましょうか?」
 すぐ脇から聞こえて来た聞き覚えのある声に、視線を上げると、
「グリューネヴェラー君」
 にこり、と表情を緩ませ、ブランカより遥かに背の高い少年は、どの本ですか、と書棚の上の方へ視線を向けつつ問う。書籍の名前を告げると、わずかに視線をさまよわせ、あぁ、と呟きながらすんなりと目的の書籍を手に取る。
「どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 そう言いながら、改めて書籍名を見たジークヴァルドは、課題ですか、と静かに言葉を紡ぐ。
「うん。応用系の科目は苦手で……先生に課題を出されたの」
「そんなに苦手でしたか?」
「……まぁ。先生を困らせるくらいには」
 ブランカの言葉を聞き、端正な顔に小さく笑みを乗せたジークヴァルドは、それなら、と続ける。
「教えましょうか?」
「え?」
「僕でよければ、ですが」
 その言葉にぽかん、とブランカはジークヴァルドの顔を見返す。彼の成績が優秀であることは毎回張り出される実力テストの結果を見ていればわかるーー彼は成績優秀者表彰の常連だーー
「いいの?」
「もちろん」

 ジークヴァルドから勉強を教わり始めて、3日。課題の提出期限まであと4日。遅々として進まない課題の進行具合に、ブランカはがっくりと机の上に突っ伏す。ジークヴァルドの教え方は懇切丁寧で、とてもわかりやすい。説明を聞いている時は凄くわかったような気分になるのだが、いざ課題と向き合うとどういう訳か全くわからなくなってしまうのである。
(……どうしよう)
 ジークヴァルドとは、とりあえず出された課題をクリアするまでとの約束で教えを請うことにした。そんな短期間で全てを理解できる様になるとは思わないが、せめて課題を出された範囲くらいは理解できるようになりたい、と、希望はあるのだが。なかなか道のりは険しいようだ。
 ジークヴァルドは、そんなブランカに対し、表立って文句をいうわけでもなく、飲み込みの悪い様を見せても根気よく教えてくれている。
(よけいに、なんか、もう申し訳ないなぁ……)
 と、薄暗い気持ちになりながら、身を起こし、本日こなす予定の課題を鞄の中から引っ張り出す。
「エーベルヴァイン」
 図書館内であることを考慮して、わずかに潜められた声が頭上から振ってくる。顔を上げると、立っていたのは予想通りジークヴァルドで、小さな笑みを閃かせてから、ブランカが座る席の隣に腰を落ち着ける。
「……グリューネヴェラー君。毎日ごめんね?」
「いいえ? こちらから申し出ましたし」
「そうなんだけど……」
「今日はどこからでした?」
 手元に広げる課題を覗き込んでくるジークヴァルドの表情からは、彼の心情を読み取る事はできない。呆れられてやしないかと、わずかにひやりとしながら、ここから、とブランカはやるべき箇所を指し示す。
「ここは……そうですね、違う書籍を参考にしましょうか」
課題の用紙と、机上に並べられた書籍類を見比べて、ジークヴァルドは立ち上がる。
「どの本を探しに行くの?」
 告げられた書籍名にはブランカも聞き覚えがあったので、それならこっち、と先に立って歩き出す。目的の本を探し当てたとき、ジークヴァルドがやや驚きを滲ませた声を発した。
「覚えてるんですか?」
「え? うん。図書館は割とよくくるから……本を探したりするのに、あちこちの書棚をみてまわったし……」
「でも、この量ですよ」
 アカデミーが保有するこの図書館は決して小さいものではない。
「うん。でもこういうの得意なの」
 ブランカはほのりと笑って、一度見た事があるもので自身が興味を持っている事柄であれば、大概は記憶していられる事、それを写真をめくる様に思い出せる事を説明する。ジークヴァルドはわずかに目を見開いて驚きの表情をみせたあと、すごいですね、と小さく呟いた。
 その一言が、課題もろくにこなせていない自分にとって、たいそうな褒め言葉に聞こえてブランカは破顔する。ありがとう、と答えると、ジークヴァルドはことり、と小首を傾げ、なぜお礼を言われるのかわからない、と言外に告げる。その様が、ジークヴァルドが見せる仕草にしては大層子供っぽく見え、ブランカはますます笑顔になり、くすくすと笑った。

 とはいえ、そこを褒められたからといっても、課題をこなす量が格段に増えた訳ではなく。応用が得意になった訳でもない。課題の提出期限を明日に控え、今日も今日とてブランカは図書館に居た。ジークヴァルドとの約束も今日までだ。
 用事を済ませてから合流する、と予め連絡を貰っていたので、ブランカはいつものお気に入りの席に一人で腰掛け、課題にとりかかる。と、ふとすぐ脇に人が立つ気配がしたので顔をあげる。そこに立っていたのはジークヴァルド、ではなく、クラスメイトの少年だった。
 何か用事か、はたまたこちらが失念していただけで、約束事でもあったろうか、と記憶を巡らせていると、少年がやや堅めの声で今日はグリューネヴェラーは来ないのか、と尋ねてくる。なるほど、ジークヴァルドに用事だったのか、と独り納得したブランカは、後れてくる旨を伝え、また課題へと視線を戻そうとした。
 すると、少年はブランカの隣の席へ腰掛けようとする。
「?」
「おれも、一緒に混ざっていいか」
「え?」
「課題、やってるんだろ」
 少年の言葉をきょとん、と小首を傾げた後に脳内で反駁し、それから、そうか、と思い至る。
「貴方も、グリューネヴェラー君に教えてもらいたいのね?」
「へ?」
「教え方上手ですものね」
 うんうん、と勝手に納得していると、少年が苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる。文武に秀でたジークヴァルドに勉強を教わりたいクラスメイトは沢山いるのだろう。1週間も彼を独り占めして申し訳なかった、と胸中密かにブランカは思う。
「あ、でも今日で私が約束してる期間は終わりだから、明日からは貴方が教わったら良いと思うの」
「いや、そうじゃなくて……」
「?」
 言いよどむ少年の様子に疑問を感じたものの、明日までの提出期限が迫っている課題をどうにかしなくてはいけないブランカは、さて、ジークヴァルドが来るまでに課題の一つでも進めておこうかと、改めて課題の用紙へ視線を落とす。
「ブランカ」
 と、突然聞こえた己の名に、ブランカはぱちり、と瞬きを一つし、その声が、この1週間の間に随分聞き慣れた相手の声であったことに驚き、顔を上げる。閲覧席に設けられた机を挟み、ブランカの向かい側の位置に立つのは、やはり思った通りの人物ーージークヴァルドだった。
「……呼んだ?」
「はい」
「なぁに?」
「いえ……これから、ブランカ、と呼んでも?」
「え?」
 折角親しくなりましたし、とにこやかに告げられ、そういえば、この1週間で随分親しくなったような気がする、と思い返す。少なくとも、単なるクラスメイト、というポジションではなくなったような。
「それなら」
「はい?」
「わたくしも、ジークヴァルド、と呼んでも良いかしら?」
 ブランカの応えが意外だったのか、ジークヴァルドは一瞬虚をつかれたような表情を浮かべたあとに、いつもの笑みを浮かべる。
「構いませんよ」
 あぁ、親しい間柄の人にはジーク、と呼ばれます、長いから、という言葉に甘え、それならジークにしましょう、と笑みを浮かべた所で、隣に座っていた少年がカタリ、と小さな音を立てて椅子から立ち上がる。
「あら? 課題は? 折角ジークが来たのに」
「いや、ちょっと急用思い出して」
 力なく告げられ、あら大変、と思う間もなく少年が足早に立ち去って行く。その背を見送っていると、今度は入れ替わりにジークヴァルドが席につき、さ、課題を始めましょうかと持ちかけられる。そうだ、期限は明日なのだ。のんびりしている時間はブランカにもなかった。
「さっきの彼、ジークに教わりたいうだったようだけど」
「そうなんですか? では後で僕から聞いておきましょう」
 にこり、と告げるジークヴァルドの赤目が、すぅとわずかに細まった。



(20131230初出)
*** ***
※アカデミー時代妄想ジークさんとブランカ。まだそんなに親しくないころっていうか、お互い新種発見、ていう認識くらいの頃、かな。
ジークさんの一人称をわざと「僕」にかえております、すいません。完全な趣味です、ねつ造です。


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