Act10-05

 今更そんなこと、というのが先ず初めに浮かんだ正直な気持ちだった。やっと、覚悟を決めたのに。そんな気持ちが表情に出ていたのだろう。氷花が苦笑する。
「普通は、泣いたって逃がしてもらえないのよ。向こうから自由にしてくれるっていうんだから、喜んどきなさい」
 ぽんぽんと、右手を軽く叩かれて、渋々藍嘩が頷く。
「湮王だって、行き場のないか弱い女の子を早々追い出したりしないから。なんたって、慈悲深いって有名なんだから」
「…言ってくれるじゃないか…まぁ、清姫じゃなく、ただの女の子ならどれだけ居てくれたってかまわないさ。」
 やれやれ、とため息をつきつつも優しい顔で笑った李凪に、藍嘩が慌てて頭を下げる。
「すみません」
「いいんだよ、どうせ、氷花の差し金だ。藍嘩が謝らなくちゃいけないことなんてひとつも無いんだし」
「はいはい、みんなアタシが悪いのよ」
 氷花がおどけてみせる。藍嘩は、ふと、氷花が入ってきた窓の向こうに視線を投げる。雲ひとつ無い快晴の空は、どこまでも青く、そのまぶしさに藍嘩は目を細めた。張り詰めた気持ちが緩み、小さく息をつく。暫くそのまま黙っていたが、やがて大きく息を吸い、氷花をひたりと見つめる。
「清姫じゃなくても、この身体にある力は清姫たるものなのでしょう?」
「…そうなるわね」
「ちゃんと使えるようにするにはどうすればいいの?」
 氷花と李凪が驚きに目を見張る。
「使い方を憶えてどうするの?」
 氷花がたずねた。
「王様じゃなくたって、祈るのは自由なはずだもの…私だって清都の民なんだから、清都の皆の幸せを願ったっていいはずだよね…?」
「そりゃ、まぁそうね」
「世界の皆じゃなくて良いの。私が知ってる人だけでも。私が未来を操る力があるっていうのなら、願えばそのとおりになるかもしれないもの」
「藍嘩」
「私、王様に知り合いが多いから、王様が幸せなら、その国も幸せになるかもしれないし」
 そう言ってそっと藍嘩は笑った。揺るぎの無い決意が見て取れる笑みだった。


 二ヵ月後。
 藍嘩は未だ湮の国に留まり、凛涅が学ぶ学校の教本を読ませてもらったり李凪から色々なことの話を聞いて日々を過ごしていた。李凪が言うには、清都の民の力についてなんか知るわけが無い、とのことだったが、それでも李凪から聞く魔法の使い方の心得などは、藍嘩には随分新鮮だった。
 清都の姉とは定期的に書簡をやり取りし、互いの近況を報告しあった。新しい清姫のことや変わらぬ暮らしぶりのことなどを読むたびに、そろそろ帰ろうかなと思わなくも無いが、もう少し学びたいこともある。
 その日の藍嘩は、窓を開け放ち空を見遣っていた。僅かに青空のなかに僅かに白い雲が浮かび、開け放った窓からは穏やかな風が入ってきていた。風が藍嘩の髪を揺らす。
 と、空の青の中に一点の黒。
 それは、鳥の影だった。徐々に近づくその影に、藍嘩は微笑む。藍嘩が窓辺から一歩身を引くのと、鳥が開け放った窓から室内に飛び込み、机上に置いた鉢植えの木に宿るのはほぼ同時。ぴる、と一声啼くその鳥は、青空よりも深い藍色をしていた。ぴる、ぴると続けて啼く鳥に、藍嘩は机に設えてある引き出しの中から、青い石を取り出して一粒与えた。それは、ガラス球のようにも見える。
 続けてもう一粒石を与えると、鳥はぴっと首を真っ直ぐに保ち、口を開いた。聴こえる声は、
「藍嘩、元気にしてる?」
 キリのものだった。
 鳥は、実は本物ではない。梁が開発した『機械』の1つ。一対の木と組み合わせて使うもので、鳥はその木の間を距離に関係なく行き来する。石は、固形の燃料で一粒与えれば自分の声を吹き込むことができ、もう一粒を与えれば対の木へと駆けて行く。藍嘩が最初に与えた一粒は、長距離を駆けた燃料補給に、次の一粒は声を再生するためのもの。聴こえてきたキリの声に、藍嘩は笑みを深くすると椅子を引いてそっと腰掛けた。キリの声でしゃべる鳥は、時々小首を傾げて瞳をきょろりと動かしている。
「こっちは相変わらずだよ。最近は大きい依頼もないから、オレたちはのんびりしてる、かな。刹那はなんだかあちこちに出かけてるみたいだよ。碧仁のところは、ようやく落ち着いてきたってところかなぁ…」
 キリの声に、相手には届かないと分かっていながら藍嘩は頷く。その間も、キリの楽しそうな喋り声は途切れることがなく、藍嘩は一々頷いたり笑ったりして話に聞き入っていた。
「あ!そうだ、今日はすげー知らせがあるんだ。梁王が結婚するんだって!」
「えぇ?!」
 突然の思いもよらない知らせに、藍嘩は椅子から身を乗り出して鳥に詰め寄る。が、当然相手ははキリの言葉を記憶し再生するためのモノなので、藍嘩の反応には特に何も示さない。どころか、声はとめどなく続く。
「相手はね…清姫だよ。……びっくりした?オレもびっくりしたんだ。しかも、清姫のほうから持ちかけた話らしくて…」
 その後、キリの声がなんと続けたのか藍嘩は憶えていなかった。そのまま席を立ち、部屋を後にする。ばたばたと、行儀が悪いとは思いつつ廊下をひた走り目指す扉の向こうには、
「なんだい、藍嘩。そんなに慌てて。凛涅なら今日は居ないよ。デートだからね」
 にやりと李凪が笑った。
「あ、の…そうじゃなくて。凍冴さんが、」
 息も整わないまま紡ぐ言葉に、あぁと李凪は頷く。
「結婚するっていうんだろ?清姫と」
「知ってたんですか?」
「今、使者が帰ったところさ。…ま、いいんじゃないかね」
「…え?」
「国と国を結ぶ同盟でも、一番分かりやすいのは王族同士の婚姻だからね。単なる隷属じゃなくて婚姻なら、ある程度対等だ」
「…」
「婚儀の式典に参列してほしいっていう依頼の使者だったんだよ。湮は出席を拒む理由はない。あんたも行くなら、手配するけど?」
「…私?」
「双方共に知らない仲じゃないんだろ。ちょっと冷やかしにでもいけばいいさ。あぁ、それとも斎王が迎えに来るかな」
 そこで、李凪は笑う。
「そんな顔しなくてもいいんだよ、今回のことは清姫が決めたことだ…王としては間違ってない」
「でも、真子羅さまは」
「真子羅なら、あの男が幸せにするよ、大丈夫」
 どこに根拠があるのか、自信たっぷりに李凪が言う。
「清姫を選んだのも真子羅なら婚姻を結ぶと決めたのも真子羅さ。藍華がそんな顔しなくていい。…あんたにできるのはせいぜい、二人を祝福することぐらいだね」
「いいんでしょうか」
「それ以外になにがある?」
 李凪の言葉に藍華はうつむく。返る言葉はない。
「自分の身代わりにしてしまったんじゃないかと気に病むぐらいなら、あんたの能力とやらを大盤振舞して、二人の幸せな未来でも引き寄せてやればいい。」
 李凪の言葉に藍華は顔をあげ、すこし無理やりだが、笑った。

 まぶしい程の青空のもと、祝いの花が舞い歓声が辺りを包む。迎えられる花嫁は美しく、毅然としていた。行列が街角を練り歩き、お祭り騒ぎになっている街道の片隅で藍嘩はその様子を見守った。李凪が二人に対面できるように取り計らってくれると申し出てくれたのだが、断った。なにを話せばいいのかわからなかったから。傍らに居たキリが藍嘩の服の袖を引く。
「藍嘩?」
 藍嘩は首を振って、なんでもないと呟く。こうしてみると、案外自分は未練がましかったのだと内心で苦笑する。求められていたときは逃げたかったのに、必要なくなると気になるなどとは。それでも、それぞれがそれぞれに歩き出しているのだから。自分もきちんと歩かなくては。
「キリ君は、氷花たちと一緒に宴にはでないの?」
「招待されてるのは氷花と刹那だけだからね…オレは藍嘩の護衛」
「護衛?」
 僅かに胸をはって告げるキリに頬を緩ませる。
「じゃ、私たちもお祭りを見ていこっか」
「うん」
 浮かれ気味の人並みに一歩踏み出す。右へ左へと、浮かれる空気に紛れて自分たちも浮かれながら、はしゃぐ空気を楽しんで。そうして、熱が引いたら帰るのだ。姉の待つ家に。
 藍嘩の周りを先ほどの行列が撒いた祝福の花びらの名残が、舞った。


page top