それからのこと

 最初に思ったことは、参ったナァ、だった。
 数日前から珍しく(本当に珍しく。こんなことは獣と契約してから初めてだ。実に百年以上を数える)、風邪を引きだるい体を引き摺っていた。頭はぼうっとするし、己の血流の中に済むはずの獣の気配さえも感じられないのも、すべてが風邪のせいだと思っていた。
 ので、
 驚くと同時に、
(参った…)

 嫌になるほどよく見知った銀髪。
 血よりもなお濃い紅い瞳。

 かつて、常に隣に立てるその力を羨み、兄とも慕った。
 彼に類似した容姿。違うのは、顎の辺りで切りそろえられた髪がさらりと揺れることと、彼よりはかなりの小柄な少女であること。青年は、一人で暮らす(かつては姉と同居していた)住居のベッドに、風邪が原因ではない眩暈を感じで倒れ伏す。
 そんな青年の有様を、大して動じた様子もなく淡々と見つめる紅い瞳から逃れるように青年は、黒髪をがしがしと己の手でかき回した。
「…何かの間違いってことは」
「ない」
「…そうですか…」
「あきらめたら」
 至極あっさり言ってのける、自分よりも明らかに年下の(ように見える)少女に向けて恨み言を言うのも大人気ない気がして、青年は開きかけた口を閉じる。それでも堪えきれない思いが口を付いて出た。
「おかしいだろ」
「何が?」
「王ってのは王の獣としか契約できないって聞いてるけど?…オレもう契約してるし」
「…どこに獣が?」
 少女はきょとんと首を傾げ、その後小さな手で青年の胸を軽く押す。
 その時、初めて青年は己の内に獣の気配が『無い』ことを実感した。依代である自分が弱れば、依存している間柄である獣も当然弱るのだと、風邪のせいで単に気配を感じないだけど、思っていた。だが、そうではないことを悟る。
「王の獣が不在の時は、斎王と言えど、ただの一族のものに過ぎない。その間に、常の契約を交わすなど珍しいことでもない。」
 あぁ、ますます眩暈が酷くなった気がする。
「前王の姿を身近で見て知っているのだから、別段いまさら心配することもない」
 前王と聞いてドキリと心臓が震えた。
 ――そう、誰よりも近くで見ていた。
 彼の王と、その獣を。
 それでも、総てを知っているわけじゃない。何も言わずに去った後姿を今でも思い出す。まだ、子供の域を脱しきれていなかった自分にとっては、明日も変わらぬ笑顔が見られるのだと信じて疑わなかった日々。身の内に住む己の獣の嘆きが王の死を意味するのだというのは、誰に教わったわけでもないのに知っていた。王は、誰も知らないところへ、ただ一人の下僕だけを連れて去った。
「王になったら」
 どうなるんだ、と言葉を発する前に少女が返す。
「全てを失う。――たとえば、家族。親や兄弟、自分の子供を持つことも…王という立場は、責を負い常に一人孤高の存在であることを求められる。」
 知っている、と青年は胸中で呟く。そうして、生きていたから。
「――でも、私が全てを与える。あんたが、失うものと引き換えに。」
 そう告げた少女の毅然とした表情は、もう失ってしまったかつての王を、思い出させた。既視感に動きを止めた青年が、一瞬後に息を吐く。
「…いつか、子供を持つのが夢だったんだけどなぁ」
 まだ相手はいないんだけど、と半ば冗談のつもりでぼやくと、真面目な声が答えた。
「王は獣が選ぶ。既に子が在ったとしても、王の子は王になりえない。ましてや王より永く生きる一族のものが居るわけでもない。契約で長寿になりはすれど、不死は王だけのもの。ならば、別れの悲しみは少ないほうが良いし、生殖能力には何の意味も無い」
 すっぱり言い切る姿は、いっそ潔いほどだ。
「…あいつも、初めはこんなんだったのかな」
 脳裏に浮かぶ姿に肩を竦めた。
「何でオレなの?」
「理由はない」
 簡潔な答えにがっくりと肩を落とす。
「ただ、生れ落ちた時から頭の中に響く音が在って、溢れる何かがあった。…ここへきたらソレが消えた。それだけ。」
「…もしもオレが断ったら?」
「ただの獣が杜へ帰るだけ。私が眠りについてやがて朽ちれば、新たな獣が生まれる。そしてまた王を選ぶ」
 ひたり、と真っ直ぐな視線を向けられる。それは、かつて見たのと同じようでありまったく違うものでもあった。
 意を決して獣の手を取る青年の、聞いた言葉はかつて彼が慕った彼の王が聞いた言葉と寸分違うことなく。


 数日後、彼は姉からこっそり彼の王が、次に選ばれるならきっと青年に違いないと、はた迷惑な予想を立てていたことを聞かされた。同時に、一番選んで欲しくないとも。その言葉に、いかにもあの人らしいと笑ってから、ようやく覚悟を決めて迷いを払う。
 吹き抜ける風に瞳を細めて、隣に立つ新しい相棒を見遣る。
 小さな姿。なびく銀髪が日の光に照らされて、光を弾いた。オレしかいないんなら、やるしかねぇよなーと、大きく伸びをしてからハタ、と気付く。
「…そういえば、名前は?」
雪花(せっか)
 いまさら、という感情を隠しもしない紅瞳ににやりと笑いかけて、
「オレはキリ。よろしくな」
 そして、新しい世界を手に入れた。


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