スラムにも、小さな春が訪れた穏やかな日の午後、彼女はやってきた。
「あ、お母さん。来たよ!!」
嬉しそうにはしゃぐ娘の視線の先には、相変わらずの笑顔と相棒を従えた、斎王が、居た。
「おひさしぶりです、氷花。」
「お久しぶりって、ねぇ…のんきに挨拶している場合じゃないでしょ、もう」
氷花の声を聞きつけた夫が部屋の奥から出てきて、生まれて数ヶ月たつ息子を抱き上げる。
「G59区からいらっしゃったのでしょう?途中、梁國は通られました?あそこもだいぶ変わったでしょう?」
私に負けず劣らずのんびりした声で夫が尋ねると、氷花はますます頬を高潮させて声を荒げた。
「…あのねぇ、そんな世界情勢なんかどうでもいいから、何であんたたちはとっとと自分の息子に名前を付けないの!」
そう、もう半年も前に生まれた我が子にはまだ名が無い。
「氷花が春にくると約束してくれていたから、名前を付けていただこうと想って」
そういう私の台詞に心底あきれた顔をした氷花は大きくため息をついた。
「…なんなの、皆して。アタシ名づけ親になるためにスラムを渡り歩いているわけじゃないんだけど…この前もさ、アイキのところいったら、もう1歳になろうかという子供の名前を決めろとかいわれたのよ?」
アイキとはG59区に住む一族の名だ。斎の一族は昔から土地を持たず、国を持たず、山から山へ、杜から杜へ、渡り歩いて生活をしてきた。地に降りることなく、時々、依頼される仕事を請け負い、決して表立って目立つ事は無く。ただ、斎という名が一族をまとめていた。
「ユウリは今いくつになるんだっけ?」娘の頭をなでながら、氷花が問うと、
「6つだよ。」
と娘がこたえる。
「この辺の情勢はどうなんだ?」
その様子を横目で眺めつつ、刹那が夫と話をしている。
「そうですねぇ。治安はだいぶ落ち着いてきましたが、蒋國(ショウコク)からの難民の流れが止まりませんね…少し前に梁國と派手にやってたみたいですから。」
今では一族の多くの者たちが無数にあるスラムに点在しており、時々こうして氷花が立ち寄るとその地の情報なんかを報告する。もちろん、氷花が近くにいなくてもネットワークを用いて逐一情報を流してはいるけれど。それでもこうしてじかに話を出来る機会は嬉しいものだ。
「今回はどのくらい滞在される予定なんです?」
「あぁ〜…ごめんね。明日には出るわ。サリのトコも子供生まれたんだって…聴いた?また名前付けに行かなきゃいけないのよ。もうウンザリ」
といいながらどこか楽しげな様子の氷花に小さく微笑むと
「なによ、その顔は」
と頬を膨らます。
「斎の一族も、変わりました」
昔はもっと血なまぐさいことがたくさんあったし、こんな風に家庭を持つ事が出来るなんて、思いもしなかった。
「こんな風に、子供がいて、夫がいて…氷花を家にお招きすることがあるなどとは、想いませんでしたわ」
「…なにを言っているの、突然」
照れ隠しなのか、いぶかしげにコチラを見上げる氷花をそっと見つめ返す。
「…此処はスラムで治安も悪いし。相変わらず国も土地も無いわ。」
「それでも、私たちには家があって、暮らしがあります。」
「…皆には不便をさせているし」
「いいえ。今斎の一族の中で実際に仕事を“請けて”いるのは氷花だけです。皆は地へ降り暮らしている」
「…昔とは世界情勢もちがうからね、前みたいに国の数がすくないければまだしも、こんだけかずがおおいと情報収集も骨なのよ。だったら各地に皆がいて、逐一報告入れてくれるほうがらくだもの。それに刹那とふたりだけのほうが動きやすい」
「本来は王をお守りするはずの一族のものが安穏と暮らし、王自ら“請け”を負うなど…」
「…だから、力が強いものが仕事をうけたほうが、成功率も高いでしょう?」
わかっています。
誰よりも強く、誰よりも優しい王よ。
それでも、その身を案じる事くらいは許して欲しいのです。こうして、何かの口実を設けて、貴方の訪れを待っているのです。
「…氷花。皆、貴方を愛しているんです。王としてじゃなく、氷花として。」
「知ってるわよ、そんなことくらい。」
そういって、真っ赤になって俯いた顔に、思わず噴出してしそうになったことは、内緒にしておきましょう。
その日、半年目にしてようやく我が子の名が決められた。
「キリ、その名の下に多くの幸せがあらんことを」
静かにそう呟く、氷花の横顔を、じっと目にきざみつけて。どうか、次に訪れてくれる日まで無事であるようにと願った。